あのオーストラリアのど田舎町で大木に正面衝突し、一生歩く事が出来ない車椅子ユーザーになってから10年以上が経ちました。
これまで普通の人には経験できない苦しみを味わって来たけど、今となってはその苦難があったからこそ今の幸せがあると思っています。
まあ人それぞれの人生があって、苦しみや悲しみ、喜びみたいなものは大きい小さいで測ることは出来ないけどね。
でもほんと今幸せだなって心から思えるんです。
むしろあの時、車で大木に正面衝突して首をポキって折って良かったなって。
むしろ障害者になって車椅子ユーザーになって良かったなって。
なぜだろう?
具体的にその理由について説明してみようと思います。
幸せに敏感になった
今思い返すと事故ってすぐは本当に大変でした。
自由に動いていた体が目が醒めると全く動かなくなっていて、しかも触られていても何も感じない。
「こんな体でどうやって生きていけばいいんだ」と毎日毎日朝も夜も考えてしまって眠れずに、夜は眠剤を使ってやっとで眠りにつく。
そんな状態から少しずつ、ほんとに1ミリずつ自分の操作方法を覚えていく感じ。
事故って直ぐの時は肺も思うように動かなく自分で呼吸も出来なかったけどだんだんとできるようになった。
ご飯を誰かに食べさせてもらっていたのが自分で食べれるようになった。
着替えを自分で出来なかったのができるようになる。
ペットボトルの蓋を開けれるようになる。
シャワーを自分で浴びれるようになる。
付き添いがいないと外出できなかったのができるようになる。
1人で買い物に行けるようになる。
飲みに行けるようになる。
、
、
、
この10年間で日々自分でできることが増えていってその度に喜びを感じることができた。
普通の人には当たり前の事だけど僕にとっては何もかもがチャレンジで、それを乗り越えるたびに幸せを感じることができるんですよね。
それって、その感じている幸せってあの時事故って障害者になって車椅子ユーザーにならなければ味わえなかったものなんですよね。
だから普通の人とは違う喜びを感じている自分は幸せだなって思うわけです。
普通の人には当たり前のことでも、当たり前のことを出来る幸せに敏感になりました。
どん底を経験したおかげで少しの困難は屁に思える
だけど10年前に事故って味わった絶望感は計り知れなくて、今後経験することはないんじゃないかって思うんですよね、人生何があるかわからないけど。
絶望感が半端なくて、この自分の体が嫌で嫌すぎて幽体離脱しかけましたから。
23の時に事故ったんですけど、それまでに抱いていた夢や希望、将来こうなりたいとか、こうゆう事したいとかがいきなり
はいダメーって
一瞬のうちに打ち砕かれて
そりゃー、直ぐ切り替えれるわけもないし、夢であって欲しいとか思う訳ですよ。
いきなり何も知らない別の世界に放り込まれてどうやって進んで行けばいいのかわからないのは当たり前で、とにかく目の前にあるやるべきことをこなして過ごしていく事しかできませんでした。
だからそれと比べると、今現在の日常での困難が屁に思えると言うか笑えると言うか、可愛いもんだなって思えるわけです。
強くなりました。
「死ぬ事以外かすり傷」って誰かが言ってたけどそんな感覚に近いのかも。
(あ、箕輪さんだった。)
車椅子ユーザーの様々な特典
それに車椅子ユーザになっていろんな良い事がありました。
例えば知らない人に声をかけられる事が多くなったんですよね
「お手伝いしましょうか?」
という感じで。
素直に嬉しいし心がほっこりします。
それを受け取った事で自分も他の人に優しく接する事ができるようになるんです。
それから自分が車椅子ユーザーなので多様性が深く理解できるようになった事。
人は違ってあたりまで、右利きの人もいれば左利きの人もいるし、外国人もいるし、生まれてから今まで全く同じ人生を送ってきた人なんて1人もいない。
考え方だって人それぞれ。
そう思えるようになれば、意見の衝突があったとしても相手を思いやる事ができるようになるし、イライラする事、ストレスが減ると思うんですよね。
それに車椅子ユーザーになって物理的に目線が低くなると、今まで見ることのできなかった景色を見ることが出来ます。
代表的なのが人のお尻がよく見えるという事。
目線がちょうどその辺りなのでどうしても視界に入って来てしまうんですよ。
それで美しい女性のハリのあるお尻に巡り会った時は
「ああ、生きててよかった」って思えるわけです。
健常者よりも近い位置で眺める事ができるわけです。
これって10年前に事故って車椅子ユーザーにならなければ見る事ができなかった眺めでしょ?
だから障害者になって車椅子ユーザーになって本当に良かったです。
ありがとう。
、
、
、
以上、おやすみなさい。